寺子屋ごはん6/26(月)

寺子屋ごはんに関わってくださっている、地域の「寺子屋ごはんサポーター」さんに、自己紹介を書いて頂いています。今日は、元気・ユーモア・好奇心の三冠王「みちこちゃん」です!

------------------------------
昔南アフリカに居ました。

もう50年以上前の話になりますが、主人の転勤先が、南アフリカのケープタウンと、聞かされた時、”えー、アフリカ!、なんでアメリカや、ヨロッパとちがうのん、、、”とがっかりしたことを覚えています。
友達にも、”ライオンに食べられんように、気いつけや、、、”なんて冷やかされたりしました。
主人が先に赴任し、私は数ヶ月後に、当時3歳の長男と1歳の次男を連れて出発しました。まず大阪から東京に出て、東京からアンカレッジ経由、ロンドンに行きました、ここまではJALなので安心でしたが、ロンドンからは日本の航空会社はなく、英国航空でナイロビ経由、ヨハネスブルグ、そしてケープタウンと言う行程でしたが、当時の私の英語力は,ハロー、サンキュウ、グッドバイ程度で、飛行機内のアナウンスなども、全くわからず、子供はぐずるし今から思えば、われながらよく頑張ったなア、と思います。これもすべて愛する(と、その当時は思っていました)夫に会うため、と若い心が燃え上がっていたのでしょう(うぶな私、いじらしくなります)。
北極の上を飛んでいるとき、素晴らしいオーロラを、永い間眺めることができました、本当にきれいな情景で、いまだに鮮明に覚えています、その時の機長さんの話では、めったに見られないとのことでした。
 
当時ケープタウンには、日本人は家族も入れても20名程度で、大体町の中心部に住んでいたのですが、主人が借りていた家は、だいぶ郊外にあり、日本では考えられないような、広々としたところでした。
 
南アはもともと、オランダの植民地でしたが、後に英国がオランダから取り上げたもので、従い住んでいる白人も、オランダ系とイギリス系に分かれています。オランダ系の人たちがしゃべる、、アフリカーンズと言う言葉と、英語の2か国語が公用語です。
 
そのころは、未だアパルトヘイトの時代で、人種差別を理由にオリンピックから、除外されていました、またその時は知りませんでしたが,後に大統領になった、マンデラさんが収容されていた、ロビンアイランドがケープタウンの沖合にみえました。南ア政府は、人種差別ではなく、区別だと言いうような説明をしていました。
大きな分け方は、White, Non-White であり、我々黄色人種は、Non-whiteの中の、Asianと言いう位置づけでしたが、日本は南アにとって、大切な貿易相手国と言うことで、名誉白人(Honorable White)と言うことで、白人並み扱いと言うことでした。ケープタウンの街中では、余り差別を受けるようなことは、なかったですが、それでも、白人用のバスが停まってくれない(バスに乗るときは、手を挙げるのですが、日本人が手を挙げても、無視された)とか、又田舎の方に行くと、白人用レストランに入ると、沢山席が空いてるにも拘わらず、予約で満杯、なんて理由で、断られたりということがありました。
一度かなり激しい車の衝突事故を、目撃した時のことですが、救急車が来たのですが(救急車、搬送される病院なども、White, Non-Whiteで分かれています)どういうわけか、Non-White用のが先に来て、黒人だけを載せて走り去り、Whiteの方は、道路に倒れたまま、、、と言う場面もありました。
 
私たちの住んだ家の両隣は、右はオランダ系、左は英国系で、殆ど両家ではお付き合いがなかったようですが、たまたま私たちが間に住むことになり、日本人は珍しかったようで、親切にしてもらいました。オランダ系の方の奥さんは余り英語が得意でなく、もちろん私もまだまだ片言英語でしたので、辞書を片手に、身振り手振りのボディランゲージで、お付き合いしました、ちなみに私は高校時代演劇部に居たので、”オーこんなとこで役に立っている”なんて思いました。
 
左の英国系の家の奥さんは、私よりずいぶん年上の人でしたが、この方も親切な方で、私の英語の先生になってくれ、スーパーマーケット等いろんなところに連れて行ってくれました。その当時既に50歳くらいには、なっておられたと思うので、多分もうお亡くなりになっただろうなあ、、、とこの文章を書きながら、しみじみとした気持ちになりました。
(スーパーマーケットに行くときは、紙と鉛筆も常に持参し、絵をかいて品物の確認したりしてました)
 
家にはサーバントクオーターと言う女中さん用の区画があり、私たちもすこししてから、住み込みの女中さんを雇いました。最初は、女中さんを使うなんてことに慣れなくて、戸惑いましたが、いい女中さんで、私の英語の先生でもありました。時々はボーイフレンドが女中部屋に忍び込んでいたようでしたが。
 
南アでは車なしでは生活できず、まず最初に運転免許に挑戦しました。
夜子供たちが寝てから、主人と二人で、出来るだけ交通量の少ない道に出て、
練習しました、日本では許されていないと思いますが、当時南アでは、運転できる人が、横に居れば、無免許の私の公道での運転も可能でした。家を出るときは、仲良く出るのですが、必ずと言ってよいほど、”何してるんや、何べんゆうたらわかるんやアホ、、、ボコ(頭たたかれる音)”、”一生懸命やってるやんか、、もっと優しく教えてよ”てな会話になり、お互いブスっとして帰ってくる、というような状態でしたが、持ち前の”なにくそ”と言う気持ちのおかげで、比較的短期間に免許取得できました。車はポンコツ寸前のイタリア製マニュアル車で、今運転しろと言われても、とてもできないでしょう。
おかげで行動範囲も広くなり、その後の南アでの生活を、楽しむことができました。
赴任してから、1年半余り後、第三子(長女)を生みましたが、その時はもう運転も慣れており、主人も仕事で居なかったため、出産当日自分で運転して病院に行きました。3回目で度胸もついていたんだと思います。ちなみに日本では、妊娠したらあまり車に乗らないように、、、なんて忠告受けてましたが、南アでは毎日のように乗っていました、多分当時の日本の道はまだまだデコボコ道が多かったのでしょうね、道路事情は南アの方が格段に良かったです。
更に医療のレベルも高かったように思います、世界で初めて心臓移植に成功したのが、ケープタウン大学の先生で、日本からも大学のドクターが、研修を受けに来ていました。
 
子供が学年齢になり、近所の白人用の公立学校に、入学しました。
他の日本人の子供さんは、街の中心部にある、私立学校に通ってましたが、私たちの住んでいる所からは、車で片道30分もかかり、毎日送り迎えするのは大変なので、家の近所の公立学校(白人専用)に通わせることにしましたが、学校側にとっては、日本人を受け入れるなどと言うのは、前代未聞のことであったらしく、校長先生も困られたようですが、近所の親しくなった人たちからも、学校にお願いしてもらい、私自身も校長先生に面談に行き、無事入ることができました。(南アで公立学校に入った、最初の日本人だと言われました)
日本の1年生、2年生に当たるクラスは、Sub-A, Sub-Bクラスと呼んでいましたが、中には未だ皆について行けない子供たちもおり、その子供たちは、留年と言うことで、Last-Year Sub-A, Last-Year Sub-Bなんて呼ばれていましたが、あんまり落第なんて事は、親も子も気にしておらず、おおらかな気がしました。
その後ママ友も増え、家族ぐるみのお付き合いをし、又私は洋裁が得意だったので、それを教えながら、英会話の勉強もさせてもらいました。、
一番親しかった人とは、今でも連絡を取り合っています。
 
赴任するまでは、南アのことは何も知りませんでしたが、喜望峰のあるところだ、、と言うことだけは、知っていました。町中から車で2時間程度で行くことができ、日本から来られるお客さんは、大抵喜望峰に行きたい、、と言われ、何十回も行きました、右の方は大西洋、深い青色の海、左の方はエメラルド色に近いインド洋、二つの海流の合流点には、渦があるようにも見えました。
 
6年弱の滞在でしたが、私の眼を大きく開かせてくれ、多くの人の温かさに触れたこと、その後の私の人生に、大きな影響を与えてくれた、貴重な期間であったと思っています。
つたない文章を、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 
[みちこちゃん]

------------------------------

今日も木工は公園に出張!

寺子屋もっこうクラブのサポーターさん達は、子どもたちが安心してものづくりを楽しめるように毎月ミーティングで協議を重ねています。今回はノコギリスペース、色付けスペースに分けたことで今までより落ち着いて工作できているようでした。デザインにこだわった木の車があちこちでできていましたね!


さて今日のごはんは『新じゃが新玉たっぷりひき肉カレー』今までで一番美味しい!という声があちこちから聞こえてきましたカレーが食べられない子どもには、みちこちゃんが機転をきかせて「にんじんのきんぴらごはん」にしてくださり、「美味しかった」とペロっと食べたそうですよ!さすが、みちこちゃん😊


レストランフレンズ様、たなかれいこ様、友本様、デンマークベーカリー様、たくさんのご寄付をありがとうございました!


[ち]